イレーネ・シエラは今、とても追い詰められていた――
「一体どうするつもりなんだ? イレーネ。このままでは後半月でこの屋敷は差し押さえられるぞ?」
イレーネと幼馴染。弁護士に成り立ての栗毛色の髪の青年、ルノー・ソリスの声が部屋に響き渡る。
何故、彼の声が響き渡るかというと、この屋敷にはほぼ家財道具が無いからであった。「ええ、そうよね……どうしましょう。まさかお祖父様が、こんなにも借金を抱えていたなんて少しも知らなかったわ。そんなに派手な生活はしていなかったのに……」
古びた机の上には書類の山が置かれている。
イレーネはブロンドの長い髪をかきあげながら書類に目を通し、ため息をついた。 その書類とは言うまでもなく、祖父……ロレンツォが遺してしまった負債が記された書類である。「イレーネ、おじいさんを亡くしてまだ三ヶ月しか経過していない君にこんなことを言うのは酷だが……もう爵位は手放して誰か金持ちの平民に買い取ってもらおう。そうすればこの屋敷だけは残せる」
「ええ。そうなのだけど……お祖父様の遺言なのよ。絶対に男爵位だけは手放してはならないって」
イレーネは祖父の遺した遺言書を手に取り、ため息をつく。
「それはそうかも知れないが……住むところを失っては元も子もないだろう? 大体君は病気で倒れたおじいさんの看病をするために、仕事だって辞めてしまったじゃないか」
現在二十歳のイレーネは花嫁修業も兼ねて、エステバン伯爵家でメイドとして働いていた。しかし、半年ほど前に祖父が病気で倒れてしまったために仕事を辞めて看病にあたっていたのだ。
「仕方ないわ。ソリス家はお金が無くて使用人たちは全員暇を出してしまったのだから。私がお祖父様の看病をするしかなかったのだもの。それにお祖父様は子供の頃に両親を亡くした私を引き取って今まで育ててくれたのよ? 遺言を無下にすることは出来ないわ」
「だけど、君は今まで必死になって頑張ってきたじゃないか。家財道具を売り払って、おじいさんの治療費にあててきただろう? その結果がこれだ。もうこの屋敷には売れるものすら殆ど残っていないじゃないか。それなのにまだ五百万ジュエル以上の借金が残されているんだぞ? どうやって返済するつもりなんだ」
ルノーはすっかりがらんどうになった室内を見渡す。
「銀行から借りるっていうのはどうかしら?」
イレーネはパチンと手を叩いた。
「それは無理だな。銀行は返せるあても無い者に金を貸すような慈善事業は行っていない。早く結論を出さないと、この屋敷が差し押さえられるぞ? もう男爵位は諦めて手放せよ。それで俺と同じ庶民になろう?」
「ルノー。あなたが私を心配してくれるのは嬉しいけど、それでもやっぱり爵位は駄目。手放せないわ。だって祖父の最期の遺言なんだもの。死の間際、お祖父様は私の手をこうやって握りしめてきたのよ?」
イレーネは席を立つとルノーに近づき、両手をギュッと握りしめてきた。
「イ、イレーネ?」
狼狽えるルノー。そんな様子に気づくこともなく、イレーネはルノーの手を握りしめたまま見上げる。
「イレーネ。私の最期の願いだ。どうか二百年続いたシエラ家の爵位を守り抜いておくれ……そう言ったのよ?」
イレーネはにっこり微笑むと、ルノーの手をパッと離した。
「そ、それじゃどうするんだよ……?」
「決まっているじゃない。どうせこの屋敷は築二百年でボロボロ。雨漏りも酷いし、床板はあちこち割れている。でも、修繕するお金も無いもの。このお屋敷を手放して借金を返すことにするわ。それで住み込みで雇ってくれるお屋敷を探すことにする」
「住み込みでって……ここを出ていくつもりなのか?」
「ええ。そうよ」
「だ、だったら俺の実家で暮らさないか?」
ルノーが身を乗り出してきた。
「それは駄目よ。婚約者がいる人の実家に私が住むわけにはいかないでしょう?」
「こ、婚約者って……彼女はまだ……!」
「職場の上司のお嬢さん……確かクララさんだったかしら? 彼女に悪いわ。私なら大丈夫、こう見えても結構たくましいんだから。さて、そうと決まったら早速出かけなくちゃ」
イレーネは机の上の書類を片付け始めた。
「え? 出かけるってどこへ?」
「町へよ。職業紹介所へ行って住み込みの仕事が無いか探してみるわ」
「決意は固いんだな……仕方ない。なら、町まで送るよ。ここまで馬車で来たから乗せてやる」
「本当? ありがとう。それじゃ、すぐに準備してくるから待っていてね」
「ああ、待ってるよ」
ルノーの返事を聞くと、イレーネはいそいそと自分の部屋に向かった。
「全く……人の気持ちも知らずに……」
ひとり、部屋に残されたルノーはため息をつくのだった――
午前11時半――コルトの町の中心部に到着すると、ルノーは馬車を止めて扉を開けた。「町に着いたよ、イレーネ」そして手を差し伸べた。「ありがとう」ルノーの手を借りて馬車を降りたイレーネは目を見開いた。「まぁ、ここは……」「そうだよ、イレーネが来たがっていた職業紹介所だよ」「まさか、ここに連れてきてくれるとは思わなかったわ。ルノーは仕事が忙しい人だから、職場の近くまでで良かったのに」ルノーが務める弁護士事務所は職業紹介所よりもずっと手前にあるのだ。「何言ってるんだ。そんなはずないだろう? それに君のことだ。恐らく、途中で降ろせばここまで歩いてきていたんじゃないか? ドレス姿の女性を歩かせるわけにはいかないからな。大事なドレスを汚してしまったら困るのは君だ」「あら……分かっちゃった?」肩をすくめるイレーネ。イレーネは薄紫色のツーピースのデイ・ドレス姿だった。このドレスは数少ない彼女のドレスで、面接に挑むための外出着である。「大切なドレスまで大分手放してしまっただろう? もとからシエラ家は貧しい男爵家だったから、君は社交界デビューだって出来なかったじゃないか……今ならまだ間に合う。爵位を手放して、高額で金持ちの商人にでも売ってしまわないか? 俺に任せてくれれば、上客を紹介出来るぞ?」屋敷を手放すことに反対のルノーは最後の説得を試みる。「だから、それは出来ないって言ってるでしょう? ルノーは知らないの? 爵位があるだけで、好条件の仕事を紹介してくれるのよ?」「そんなことくらいは知ってる。仮にも俺は弁護士だぞ?」少しだけムッとした表情を見せるルノー。「幼馴染のあなたが私を心配するのは分かるし、その気持は嬉しいけれど……私は祖父の遺言を守りたいの。それじゃ行くわね。良い仕事が斡旋してもらえることを祈っていて?」「……分かった。行って来いよ」イレーネは笑顔でルノーに手を振ると、ガラス張りの回転扉をおして職業紹介所へ足を踏み入れた――****「え〜と……イレーネ・シエラさん……現在二十歳ですね?」イレーネの前にメガネを掛けた男性職員が、彼女の履歴書に目を通している。「はい、そうです」「……あぁ、なるほど……シエラ家……あまり聞いたことはありませんが男爵令嬢なのですね?」「確かにあまり名門ではありませんが、これでも貴族令嬢の嗜みは
「もっとその詳しい求人内容を教えていただけないでしょうか?」身を乗り出すイレーネに男性職員はメガネをクイッとあげた。「はい、良いでしょう。え〜と、まず場所ですが……『デリア』という町ですね。この町から汽車が出ていますね」「『デリア』なら聞いたことがあります。あの町はここよりもずっと近代化の進んだ町ですよね? 確か汽車で三時間程ではなかったでしょうか?」「ええ、その通りです。勤務時間は……おや? 一応二十四時間体制とはなっておりますが、基本夜の勤務は殆ど無いみたいですね。けれど夜勤が入る場合は別途給金を上乗せしてくれるそうです。仕事内容は面接のときに教えてくれるそうですが……う〜ん……いかがいたしますか?」男性職員は少し首をひねりながらイレーネに尋ねる。「はい、構いません。ぜひ面接を受けさせて下さい」「ええ!? ほ、本当に受けるのですか? 全く仕事内容が不明なのですよ? しかも奇妙な条件ですし……」「面接に行けば詳しく仕事内容を聞かせてくれるのですよね? すぐに紹介して下さい」今にも住むところを失いそうなイレーネにとって、衣食住保証付きの高額給金の仕事はとても魅力的だった。あれこれと選んでいる時間も手間も惜しかったのだ。「分かりました……それでは紹介状を書きましょう。少しお待ち下さい」男性職員は傍らに置いた便箋に、スラスラと文章を起こすと封筒に入れてイレーネに差し出した。「はい、ではこちらの手紙を持ってマイスター伯爵家に渡して下さい。面接日時は特に細かい決まりはなく、平日の十時から十七時までの間に伯爵家に直にお越し下さいと書かれておりますね」「え!? そんないい加減……いえ、そんな大まかなことで宜しいのでしょうか?」イレーネは驚きで目を見開く。「もしかすると先方も早急に人手を捜しているのかもしれませんね。何しろ二百キロ以上も離れたこの町にも求人を出している程ですから」「そうですね。色々なにか事情があるのかもしれませんね。妙な質問をしていまい、申し訳ございません」謝罪の言葉を述べるイレーネ。「いえいえ、そんなお気になさらないで下さい。あ、そう言えば先程の求人欄で気になる箇所が書いてありました」「え? 本当ですか? 教えて下さい」イレーネは再び、身を乗り出した。「もちろんです。え〜と、口が固い方……秘密保持出来る方を望む、とあ
女の子にお駄賃として三百ジュエルを渡してしまったイレーネ。少しでも節約する為に、辻馬車を使わずに屋敷まで歩いて帰ってきた。「ただいま〜」誰も待つ人のいない古びた屋敷に帰ってくると、食卓用の椅子に腰掛けた。「ふ〜疲れたわ……足も痛いし……」履いていたショートブーツを脱ぐと、足のマッサージをしながら壁に駆けてある時計を眺める。「え〜と、今が十時十五分だから……ええ!? 四十五分も歩いてきたのね? どうりで疲れたはずだわ……」ため息をつくとイレーネは履きなれた室内履きに足を通し、二階にある自室に向かった。――カチャ扉を開けて室内に入ると、イレーネは周囲を見渡す。「……本当に何もない部屋になってしまったわねぇ」言葉通り、この部屋にあるのはベッドと小さな文机、それに壁にかけた姿見に衣装箱だけだった。イレーネがまだ子供だった頃は、この部屋はもっと賑やかだった。女の子らしいインテリアで素敵な家具に溢れていた。それに安い賃金でも文句一つ言わずに笑顔で働いてくれていた使用人たちも大勢いた。けれど祖父が病に倒れてからは賃金すら払うこともままならなくなり、全員に辞めてもらうことに決めた。その際彼らに支払える退職金を作るためにイレーネは家財道具の殆どを売り払い、何とか全員にわずかばかりの退職金を工面することが出来たのだった。その後も祖父の治療費の為に売れそうな物は売払い……すっかりがらんどうの屋敷になり、今に至る。「でも、いいわ。これなら引越し準備も特に必要ないもの。さて、明日の準備をしなくちゃ」イレーネは自分に言い聞かせると、早速出立の準備を始めるのだった――**** 翌朝六時――濃紺のボレロとスカート姿のイレーネが姿見の前に立っていた。「うん、いい感じね。我ながら洋裁の腕前が上がったわ。これが以前はドレスだったなんて人が知ったら驚かれるでしょうね」満足そうにくるりと鏡の前で一回転する。昨晩夜なべをして、外出着用の洋服に作り直したのだ。「どうせ、ドレスを持っていても着ていく場が無いのだもの。宝の持ち腐れだったから丁度良いわね」そしてイレーネはボストンバックを持つと屋敷を後にした――****午前七時半――「ふ〜……やっと汽車に乗れたわ」三等車両の空いている座席に座るとイレーネはため息をついた。今朝も彼女は路銀を浮かせるために屋
約三時間かけてイレーネは大都市『デリア』に到着した。駅前の広場は綺麗な石畳で舗装され、『コルト』ではまだ見たこと無い路面列車が走っている。立ち並ぶ建物はどれも石造りで整然と立ち並び、町を歩く人々は誰もがどこか忙しそうに見えた。「本当にここは近代化された町なのね。まぁ、あの大きな建物、なんて背が高いのかしら。十階建てはありそうだわ。あ、あれはもしかすると『車』というものかしら? すごいわ!」ボストンバッグ片手に目の前を走り去っていった黒い車にイレーネは目を見開いた。彼女が住む町は片田舎だ。このような大都市に来るのは生まれて初めてだったので目にする物すべてが新鮮に映った。その時。ボーンボーンボーン駅前にある時計台が十一時を告げる鐘を鳴らした。「あら、いけない。町の光景に見惚れている場合じゃなかったわ。早くマイスター伯爵家の邸宅に伺わないと。お昼時に訪ねては迷惑に思われているかもしれないものね。えっと……伯爵家はここから歩いていけるのかしら?」ポケットから伯爵家の番地を書いたメモを取り出した。「う〜ん……駄目だわ。さっぱり分からない……まずは交番を訪ねてみましょう。確か向こう側に交番があったはずだわ」そこでイレーネは交番へ向かった――****赤い屋根の石造りの交番はすぐに見つかった。「すみません、少々宜しいでしょうか?」イレーネは交番の扉を開けた。「はい、どうされましたか?」カウンターの向こう側のデスクに向かっていた警察官が立ち上がる。「あの、実はマイスター伯爵家に伺いたいので行き方を教えていただけませんか?」「マイスター伯爵家ですか? ええ、教えてあげましょう。あのお屋敷は有名ですからね」まだ年若い青年警察官は笑顔で返事をする。「マイスター伯爵家に行くのであれば、馬車かタクシーを使うのが一番です。路面列車に乗るのでしたら、一番乗り場の『スザンヌ通り』で降りればすぐ目の前に広大な敷地に囲まれたお屋敷がありますよ。そこがマイスター伯爵家です」「いえ、そうではありません。徒歩で向かいたいので道順を教えて頂けないでしょうか?」「ええ!? まさか歩いて行かれるつもりですか!?」大袈裟な程驚く青年警察官。「はい、そうです。大丈夫、足なら自信があります」頷くイレーネに警察官は困った表情を浮かべる。「う~ん……悪いことは言
イレーネは交番の椅子に座り、青年警察官が馬を連れて戻ってくるのをじっと待っていた。そこへ……「どうもすみません、お待たせいたしました」扉が開き、声をかけられたイレーネは振り向いた。外には一頭の栗毛色の馬の姿がある。「いえ、そんなに待ってはおりませんので」「そうですか? では早速行きましょうか?」青年警察官は『巡回中』と書かれた立て札をカウンターに立てると笑顔を見せる。「あの……でも、本当によろしいのですか? お仕事中なのに……」申し訳なくて、イレーネは伏し目がちに尋ねる。「ええ、お気になさらないで下さい。困っている人を助けるのも警察の仕事ですからね」「はい。それでは恐れ入りますが、どうぞよろしくお願いいたします」「いいえ、気にしないで下さい」そして二人は連れ立って交番を出た。「では出発しましょう」イレーネの背後から馬にまたがった警察官が声をかけてくる。「は、はい。よ、よろしくお願い……します……」生まれて初めて馬の背に乗るイレーネが声を震わせながら返事をする。「あの? どうかしましたか?」「いえ……お恥ずかしい話ですが、馬の背中に乗るのが初めてなので……こんなに視界が高くなるなんて思いもしませんでした」男爵令嬢でありながら、落ちぶれた貴族。当然イレーネは乗馬など嗜んだことすらない。「そうだったのですか? それなら大丈夫です。後ろから支えてあげますから安心して乗って下さい。逆に怖がると、馬にまでその恐怖心が伝わってしまいますよ」「え? それは本当ですか? なら平常心を保たなければなりませんね」イレーネは背筋を伸ばすと、青年警察官は笑った。「アハハハ……なかなか面白い方ですね。では行きましょう」そして、二人を乗せた馬は常歩で町中を歩き始めた。****「ここが、この町で有名な美術館ですよ。週末になると大勢の人で賑わいます。駅からは真っすぐ行けば辿り着くので分かりやすいです。その向かい側にある大きな建物は洋品店です。有名なデザイナーがいるそうですよ」青年警察官はまるでガイドをするかのように、イレーネに町の案内をしている。「あんなに立派な美術館や洋品店があるなんて、さすが『デリア』の町は大きいですね」始めは馬を怖がっていたイレーネだったが、徐々に楽しい気分になってきた。今は町並みの光景を楽しむまでになっている。「
「こちらですよ。マイスター家の邸宅は」イレーネに声をかける青年警察官。「ここが……そうなのですか?」馬に乗ったまま、目の前に広がる光景にイレーネは目を見開いた。「ええ、そうです」警察官は馬から降りると、イレーネに手を差し伸べてきた。「さ、降りましょうか?」「恐れ入ります」イレーネは警察官の手を借りて、馬から降りると改めてマイスター伯爵邸を見つめた。石の壁がどこまでも続きそうな門。フェンスの扉の奥は綺麗に芝生が刈り取られた広大な敷地。馬車が通るための石畳が続く先に見えるのは三階建ての大きな屋敷が建っている。「すごい……なんて立派なお屋敷なのかしら。以前働いていたエステバン家よりもずっと大きいわ」思わず口に出ていた。「ええ、何しろマイスター伯爵家はここ、『デリア』でも名家ですからね。何でも近々、当主交代をすると広報誌に載っていましたよ」「そうだったのですか」(それでは、これから新しい当主になる方が雇い主になるのね)そんなことを考えていると、警察官が声をかけてきた。「それでは、私はここで失礼します。まだ仕事中ですから」「お巡りさん、本当にお世話になりました」「いえ。お役に立てて良かったです」そして再び青年警察官は馬にまたがると、手を振って去って行った。「ありがとうございました」イレーネも手を振って見送る。やがて、警察官の姿が見えなくなると門を振り返った。「こんな大きなお屋敷で、私のような田舎者が雇ってもらえるかしら? 心配だわ……いいえ、そんな弱気な事を言っては駄目よ。何しろここで雇ってもらえなければ私は最悪、宿無しになってしまうかもしれないわ。ここは堂々としていないと駄目よね!」自分自身に言い聞かせると、イレーネは背筋を伸ばす。そして門を開けてマイスター伯爵家の敷地に足を踏み入れた――*** 現在マイスター家の執事を務めるリカルド・エイデンは、今大変困った状況に置かれていた。 何故なら、それは……「ですから何度も申し上げたとおり、ルシアン様はまだお仕事から戻られていないのです。どうぞお引き取り願います」リカルドは応接間のソファに居座っている女性に、必死で訴えている。「いやよ! そんなこと言って、もう何日もルシアン様にお会いできていないわ。私に会わせないために嘘をついているのでしょう?」そして女性は腕組みすると
ブリジットをエントランスまで案内している最中、突然リカルドは背後から呼び止められた。「リカルド様! 申し訳ございません! 本日納品していた品物の件で、大至急確認していただきたいことがあります!」一人のフットマンが慌てた様子で駆け寄ってきた。「え? 本日納品……? もしかして輸入した茶葉の件ですか?」リカルドが眉をひそめた。「はい、そうです。何か手違いがあったようでして……」「そうですか……」返事をしながら、リカルドはチラリとブリジットを見る。「何よ? 私なら案内は結構よ。急ぎの御用があるのでしたら、どうぞ行って下さいな」「さようでございますか? お優しいお言葉、ありがとうございます。ですが、ブリジット様お一人でエントランスまで行って頂くわけにはまいりません。君、代わりにブリジット様に付き添ってあげて下さい」「はい、分かりました。ではブリジット様。私が代わりにお供致します」リカルドに命じられたフットマンはブリジットに話しかけた。「そう? ならお願いするわ」「ブリジット様。それでは私はこちらで失礼させていただきます」返事をするブリジットに会釈すると、リカルドは踵を返して倉庫へ足を向けた――****「ふぅ……やっとお屋敷の前に到着したわ」警察官と別れてマイスター家の敷地に入ったイレーネ。10分近く歩き続けて、ようやく扉の前に到着した。「まぁ……それにしても、マイスター家はお屋敷だけでなく扉もとても大きいのね……どこかにドアノッカーは無いかしら?」扉付近をキョロキョロしていたイレーネ。すると、突然目の前の扉がゆっくり開かれた。「「え?」」すると、ちょうどフットマンに連れられてエントランス前に立っていたブリジットと偶然対面した。ブリジットは目の前に立っていたイレーネを値踏みするかのように上から下までゆっくりと見つめ……口元に意味深な笑みを浮かべた。(随分貧しい身なりね……ここのメイドかしら? 正面から入ってくるなんて図々しい女ね)外見が美しいのが気に食わない。「ちょっと、ここはあなたのような身分の者が気安く出入りしていい場所じゃ無いわよ? 入るなら、せめて裏口からにしたらどうなの?」するとその言葉にイレーネは目を見開いた。「まぁ、そうだったのですか? どうりで立派な入り口だと思いました。初めてこちらにうかがったものでし
「え……? リカルド様にですか?」いきなり、この屋敷の執事であるリカルドの名前が見知らぬ女性の口から出てきたのでフットマンは困惑した。一方のイレーネも自分の言葉足らずなことは自覚していた。ただ、彼女がこのような言い方をしたのには理由があったのだ。それは募集要項の中に、リカルド・エイデンと言う人物以外に求人の件で来訪した旨を説明しないようにと記されていたからだ。口が固く、秘密は必ず保持するイレーネらしい行動だった。「平日の十時から十七時までの間でしたら、お会い出来るということで伺ったのですがリカルド・エイデン様はおいででしょうか?」イレーネは丁寧にもう一度尋ねた。「……」年若い令嬢を不躾に見るのは失礼かと思ったが、フットマンはイレーネをじっくり観察した。(この女性……あまり良い身なりはしていないけれど、佇まいや話し方には品がある。それに時間指定までしてきているし、何よりリカルド様のフルネームを知っている……そう言えば、以前にも何人か女性が尋ねてきたことがあったようだと他の仲間からも聞いているしな……)以前にも、リカルドを訪ねて何人か女性がこの屋敷を訪ねてきたことは聞いていた。とりあえず、屋敷の中に招いた後でリカルドの判断を仰ごうと決めた。「それでは確認してみますので、どうぞこちらへ」まさか、それだけで受け入れてくれるとは思ってもいなかったイレーネは嬉しさのあまりに笑みを浮かべた。「本当ですか? ありがとうございます」「いえ、ではどうぞこちらへ」「恐れ入ります」そしてイレーネはフットマンに案内されて屋敷の中へ招かれた。(すごい……内装もとても立派なお屋敷だわ。ここで働けたらどんなにかいいのに)フットマンの後ろを歩くイレーネは周囲を見渡した。本当は色々質問したいのだが、自分がこの屋敷へ来た理由をうっかりしゃべってしまいかねない。そこでおとなしく案内され、応接間に通された。「申し訳ございません。こちらで少々お待ちいただけますか?」「はい、待たせていただきます。お忙しいところ、案内していただき感謝いたします」ニコニコ笑いながらイレーネはフットマンに感謝の言葉を述べた。「いえ、それでは失礼いたします」フットマンもイレーネにつられ、丁寧に挨拶すると応接間を出た。―――パタン「一体、あの女性は誰だろう……? 感じも良かったし、何
「イレーネ……一体どういうことなのだ? 俺よりもブリジット嬢を優先して応接室で話をしているなんて……」ルシアンはペンを握りしめながら、書類を眺めている。勿論、眺めているだけで内容など少しも頭に入ってはいないのだが。「落ち着いて下さい。ブリジット様に嫉妬している気持ちは分かりますが……」リカルドの言葉にルシアンは抗議する。「誰が嫉妬だ? 俺は嫉妬なんかしていない。イレーネが、いやな目に遭わされていないか気になるだけだ。ブリジット嬢は……その、気が強いからな……」「イレーネ様がブリジット様如きにひるまれると思ってらっしゃいますか?」「確かにイレーネは何事にも動じない、強靭な精神力を持っているな……」リカルドの言葉に同意するルシアン。「イレーネ様は良く言えばおおらか、悪く言えば図太い神経をお持ちの方です。その様なお方がブリジット様に負けるはずなどありません」メイド長が胸を張って言い切る。「た、確かにそうだな……」この3人、イレーネとブリジットに少々失礼な物言いをしていることに気づいてはいない。「だいたい、ブリジット様の対応を出来るのはこのお屋敷ではイレーネ様しかいらっしゃらないと思いますよ?」「ええ、私もそう思います、ルシアン様。本当にイレーネ様は頼りになるお方です」メイド長は笑顔で答える。「確かにそうだな……。だが、一体2人でどんな話をしていたのだろう……?」首をひねるルシアンにメイド長が忠告する。「リカルド様、女性同士の会話にあれこれ首を突っ込まれないほうがよろしいかと思います。そして自分の話をするのではなく、女性の話を先に聞いて差し上げるのです。聞き上手な男性は、とにかく女性に好かれます」「え? そうなのか?」「はい、そうです。詮索好きな男性は女性から好ましく思われません。はっきり言って好感度が下がってしまいます。逆に自分の話を良く聞いてくれる男性に女性は惹かれるのです」「わ、分かった……女性同士の会話には首を突っ込まないようにしよう。好感度を下げるわけにはいかないからな。そして女性の話を良く聞くのだな? 心得た」真面目なルシアンはメイド長の言葉をそのまんま真に受ける。イレーネとの関係が契約で結ばれているので、好感度など関係ないことをすっかり忘れているのであった。「では、私はこの辺で失礼致します。まだ仕事が残っておりま
イレーネとブリジットは2人でお茶を飲みながら応接室で話をしていた。「それにしても絵葉書を貰った時には驚いたわ。まさかルシアン様のお祖父様が暮らしているお城に滞在していたなんて」「驚かせて申し訳ございません。ですが、お友達になって下さいとお願いしておきながら自分の今居る滞在先をお伝えしておかないのは失礼かと思いましたので」ニコニコしながら答えるイレーネ。「ま、まぁそこまで丁寧に挨拶されるとは思わなかったわ。あなたって意外と礼儀正しいのね。それで? 『ヴァルト』は楽しかったのかしら?」「ええ、とても楽しかったです。とても自然が美しい場所ですし、情緒ある町並みも素敵でした。おしゃれな喫茶店も多く、是非ブリジット様とご一緒してみたいと思いました」「あら? 私のことを思い出してくれたのね?」ブリジットはまんざらでもなさそうに笑みを浮かべる。「ええ、勿論です。何しろブリジット様は素敵な洋品店に連れて行っていただいた恩人ですから」「そ、そうかしら? あなったて中々人を見る目があるわね。今日ここへ来たのは他でもないわ。実は偶然にもオペラのチケットが3枚手に入ったのよ。開催日は3か月後なのだけど、世界的に有名な歌姫が出演しているのよ。彼女の登場するオペラは大人気で半年先までチケットが手に入らないと言われているくらいなの」ブリジットがテーブルの上にチケットを置いた。「まぁ! オペラですか!? 凄いですわね! チケット拝見させていただいてもよろしいですか?」片田舎育ち、ましてや貧しい暮らしをしていたイレーネは当然オペラなど鑑賞したことはない。「ええ、いいわよ」「では失礼いたします」イレーネはチケットを手に取り、まじまじと見つめる。「『令嬢ヴィオレッタと侯爵の秘密』というオペラですか……何だか題名だけでもドキドキしてきますね」「ええ。恋愛要素がたっぷりのオペラなのよ。女性たちに大人気な小説をオペラにしたのだから、滅多なことでは手に入れられない貴重なチケットなの。これも私の家が名家だから手に入ったようなものよ」自慢気に語るブリジット。「流石は名門の御令嬢ですね」イレーネは心底感心する。「ええ、それでなのだけど……イレーネさん、一緒にこのオペラに行かない? 友人のアメリアと3人で。そのために、今日はここへ伺ったのよ」「え? 本当ですか!? ありが
「一体どういうことなのだ? ブリジット嬢には手紙を出しているのに、俺に手紙をよこさないとは……」「ああ、イレーネさん。イレーネさんにとっては、私たちよりも友情の方が大切なのでしょうか? この私がこんなにも心配しておりますのに……」ルシアンとリカルドは互いにブツブツ呟きあっている。「あ、あの〜……それでブリジット様はいかが致しましょうか? イレーネ様は今どうなっているのだと尋ねられて、強引に上がり込んでしまっているのですけど……やむを得ず、今応接室でお待ちいただいております」オロオロしながらフットマンが状況を告げる。「何ですって! 屋敷にあげてしまったのですか!?」「何故彼女をあげてしまうんだ!!」リカルドとルシアンの両方から責められるフットマン。「そ、そんなこと仰られても、私の一存でブリジット様を追い返せるはず無いではありませんか! あの方は由緒正しい伯爵家の御令嬢なのですよ!?」半分涙目になり、弁明に走るフットマン。「むぅ……言われてみれば当然だな……よし、こうなったら仕方がない。リカルド、お前がブリジット嬢の対応にあたれ」「ええ!? 何故私が!? いやですよ!」首をブンブン振るリカルド。「即答するな! 少しくらい躊躇したらどうなのだ!?」「勘弁してくださいよ。私だってブリジット様が苦手なのですよ!?」「とにかく、我々ではブリジット様は手に負えません。メイドたちも困り果てております。ルシアン様かリカルド様を出すように言っておられるのですよ!」言い合う2人に、オロオロするフットマン。「「う……」」ブリジットに名指しされたと聞かされ、ルシアンとリカルドは同時に呻く。「リカルド……」ルシアンは恨めしそうな目でリカルドを見る。「仕方ありませんね……分かりました。私が対応を……」リカルドが言いかけたとき――「ルシアン様! ご報告があります!!」突然、メイド長が開け放たれた書斎に慌てた様子で飛び込んできた。「今度は何だ? 揉め事なら、もう勘弁してくれ。ただでさえ頭を悩ませているのに」頭を抱えながらメイド長に尋ねるルシアン。「いいえ、揉め事なのではありません。お喜び下さい! イレーネ様がお戻りになられたのですよ!」「何だって! イレーネが!?」ルシアンが席を立つ。「本当ですか!?」リカルドの顔には笑みが浮かぶ。「
ゲオルグがマイスター伯爵に怒鳴られ、逃げるように城を去っていった翌日――イレーネは馬車の前に立っていた。「……本当にもう帰ってしまうのか? 寂しくなるのぉ……」外までイレーネを見送りに出ていた伯爵が残念そうにしている。「そう仰っていただけるなんて嬉しいです。けれど、お城の見学も十分させていただきましたし何よりルシアン様が待っているでしょうから。恐らく今頃私のことを心配していると思うのです」(きっとルシアン様は私が伯爵様と良い関係を築けているか心配しているはず。ゲオルグ様と伯爵様の会話の内容も報告しないと)イレーネは使命感に燃えていた。しかし、内情を知らないマイスター伯爵は彼女の本当の胸の内を知らない。「なるほど、そうか。2人の関係は良好ということの証だな。ルシアンもきっと、今頃イレーネ嬢の不在で寂しく思っているに違いない。なら、早く顔を見せてあげることだな」「はい。早くルシアン様の元に戻って、安心させてあげたいのです」勿論、これはイレーネの本心。何しろ、ルシアンを次期当主にさせる為の契約を結んでいるのだから。「何と! そこまで2人は思い合っていたのか……これは引き止めて悪いことをしたかな? だが、この様子なら安心だ。ルシアンもようやく目が覚めたのだろう。どうかこれからもルシアンのことをよろしく頼む」伯爵は笑顔でイレーネの肩をポンポンと叩く。「ええ、お任せ下さい。伯爵様。自分の役割は心得ておりますので。それではそろそろ失礼いたしますね」イレーネは丁寧に挨拶すると、伯爵に見送られて城を後にした――****一方その頃「デリア」では――「……またか……」手紙の束を前に、ルシアンがため息をつく。「また、イレーネさんからのお手紙を探しておられたのですか? ルシアン様」紅茶を淹れていたリカルドが声をかける。「い、いや! 違うぞ! と、取引先の会社からの報告書を探していたところだ!」バサバサと手紙の束を片付けるルシアン。その様子を見たリカルドが肩をすくめる。「全くルシアン様は素直になれない方ですね。正直にイレーネさんの手紙を待っていると仰っしゃればよいではありませんか? ……本当に、何故伯爵様はイレーネさんのことを教えてくださらないのでしょう……」その言葉にルシアンは反応する。「リカルド、お前まさかまた……祖父に電話を入れたのか?
書斎ではマイスター家の現当主、ジェームズ伯爵の声が響き渡っていた。「何!? 何故ゲオルグとイレーネ嬢が一緒にやってきたのだ!?」イレーネがゲオルグと共に現れたことで伯爵の驚きは隠せない。「ええ、お祖父様に会う前に『クライン』城に行っていたのですよ」肩をすくめて答えるゲオルグ。『クライン』城とは、先程イレーネとゲオルグが出会った城のことだ。「そうだったのか? だが何故、すぐにこの城に来なかったのだ? お前の為に今日は予定を空けていたのだぞ?」どこか非難めいた眼差しを送る伯爵。「申し訳ございません。実は今、新しい事業計画を立てておりまして自分の好きなあの城で構想を練っていたのですよ。お祖父様に提案するためにね」「また、くだらない事業計画では無いだろうな?」「ええ勿論です。今度こそお祖父様のお気に召すこと間違いないです」得意げにスーツのポケットから封筒を取り出すゲオルグ。一方のイレーネは先程から2人のやり取りを黙って見ていた。(お二人の話なのに、私この場にいて良いのかしら? それにしても意外だったわ。ゲオルグ様は伯爵の前では『お祖父様』と言うのね。私の前では『爺さん』と言っていたのに……)「分かった、ならその計画書とやらを出せ。一応見てやろうじゃないか」「ええ、是非御覧下さい。今度こそお祖父様の納得のいく事業だと思いますよ。確か跡継ぎになる条件には、『仕事で成功を収めた者』も含まれていましたよね?」ゲオルグはチラリとイレーネを見る。「ああ、確かにそう言ったな。跡継ぎ候補は平等に扱わなければならないから……ん? な、何だ……この事業計画書は……」伯爵の肩がブルブル震え始めた。「ええ、どうです? 素晴らしい計画書でしょう? これでマイスター伯爵家も、益々発展していくに間違いないですよ」自慢気に胸をそらすゲオルグ。しかし、得意になっている彼は気づいていない。伯爵が震えているのは怒りのためによるものだということを。「あの、伯爵様。どうされましたか?」異変に気づいたイレーネが声をかけると、伯爵は顔を上げた。「ゲオルグ……お前、この事業計画……本気で言っているのか?」怒りを抑えながら尋ねる伯爵。「ええ、勿論です。本気も本気ですよ。何しろ、次期当主の座がかかっているのですからね」すると……。「ふ……ふざけるなーっ!!」伯爵が大声
「婚約者には、包み隠さず何でも打ち明けるのが筋じゃないか? 俺だったらそうするね。それが相手に対する誠意ってものだと思わないか?」身を乗り出すようにイレーネに語るゲオルグ。「そういうものなのでしょうか?」首を傾げ、反応が鈍いイレーネにゲオルグは益々不信感を抱く。(何だって言うんだ? そんなにこの話に興味を持てないのか? やはり、2人の婚約の話は嘘なんじゃないだろうか?)一方のイレーネはゲオルグの話を冷静に考えていた。(そう言えば、リカルド様に少し聞いたことがあるわ。確かゲオルグ様は何度もお相手の女性を取っ替え引っ替えしているって。それはやはり、過去の女性遍歴を交際相手に話してきたからじゃないかしら。きっとそうね、間違いないわ)「まぁいい。誰だって自分の婚約者が過去にどんな相手と交際していたか気になるだろうからな……ルシアンが話していないなら、俺が代わりに教えてやろう。どうだ? 知りたいだろう?」「いいえ? 別に知りたくはありませんけど?」「やっぱりな、そうくると思ったよ。誰だって知りた……ええっ!? い、今何と言ったんだ!」「はい、別に知りたくはありませんと申し上げました」何しろ、イレーネは1年間という期間限定でルシアンの妻になる雇用契約を結んだだけの関係。そこには一切の恋愛感情など存在しないのだから。「クックックッ……そうか……やはり俺の思ったとおりだったな……」もはや心の内を隠すこともなく、不敵に笑うゲオルグ。「つまりだ、イレーネ嬢。君はルシアンに頼まれて婚約したのだろう!? 何しろ爺さんが提案した次期当主になる条件は結婚なのだからな! どうだ? 違うか?」「はい、違います」「な、何!? 違うのか!」思わず椅子からずり落ちそうになるゲオルグ。そういうところはルシアンと似ている。「ええ、違います。ルシアン様に頼まれてはいません」最初に頼んできたのはリカルド。イレーネは決して嘘などついてはいない。「そうか、違うのか……では俺の見込み違いだったというわけか……? だとしたら何故ルシアンが以前交際していた女性のことを知りたくないのだ?」「ルシアン様に関するお話は、本人から直接聞きたいからです。私に話していないということは、話す必要が無いからなのではないでしょうか? それなのに無理に知りたいとは思いませんから」(私はお給料を頂
「どうぞ、イレーネ嬢」ゲオルグは自分が手配した馬車の扉を開けた。「ありがとうごいます」早速イレーネは馬車に乗り込むと、ゲオルグも後に続く。扉を閉めるとすぐに馬車は音を立てて走り始めた。「どうだい? イレーネ嬢。この馬車の乗り心地は?」何故か自慢気に尋ねてくるゲオルグ。「そうですね。座面も背もたれも丁度良い具合ですね」あまり馬車にこだわりがないイレーネは当たり障りの無い返事をする。「やっぱり分かるか? この馬車は俺が自ら考案したんだ。特にこだわったのが椅子だ。絶妙な座り心地だろう? 実は馬車の内装も今後の俺の商売に取り入れようかと考えている最中なのさ」「ゲオルグ様自ら考案とは素晴らしいですね。日々、仕事のことを考えていらっしゃるなんて。流石はルシアン様と血が繋がっているだけのことはあります」すると何故か突然ゲオルグの顔が曇った。「……やめてくれないか? あいつを引き合いに出すのは」「え? 駄目なのですか?」「ああ。あいつは昔から何かにつけ生真面目で、どこか俺を見下しているようなところがあったからな。確かにあいつの方がいい大学は卒業しているが……」ブツブツ文句を言い始めるゲオルグ。一方のイレーネは話を半分にしか聞いていなかった。何故かと言うと、馬車の中の暖かさと揺れで眠くなってきたからだ。(眠い……眠いわ……。今にも意識が……)必死で眠気をこらえるも、本能には抗えない。ついに……。「ふわぁぁあ……」我慢できずに、イレーネは大きな欠伸をしてしまった。勿論、一応淑女? らしく口元は手で隠したのだが。しかし当然のように正面に座るゲオルグに見られてしまった。「何だ? 眠くなったのか?」「あ、お話中だったのに、失礼な真似をしてしまい、申し訳ございません」すぐにイレーネは謝る。てっきり不機嫌になるのではないかとイレーネは思ったが、ゲオルグの反応は予想外のものだった。「何、別に気にすることはないさ。誰だって眠くなることがあるのだから」「確かに仰るとおりですね。つい馬車の乗り心地が良かったもので眠気が来てしまったようです」「お? 君は中々気の利いたことを言ってくれるじゃないか? 気に入ったよ。以前ルシアンが付き合っていた女性とは全く真逆のタイプだ。……おっと、婚約者の前でこれは余計な話だったかな。気に障ったなら許してくれ」ゲオル
イレーネとゲオルグは2人でガゼボの中で会話をしていた。「イレーネ。君は本当に、あのルシアンと婚約しているのか?」真剣に尋ねるゲオルグ。「はい、そうです。私のことを当主様に認めていただくために1週間前から城に滞在しております」(ゲオルグ様はルシアン様のいとこにあたる方。失礼な態度をとってはいけないわね)丁寧にゲオルグの問に答えるイレーネ。「認めていただくって……1週間も滞在しているってことは爺さんに気に入られているようなものじゃないか……」ため息をつきながら、前髪をかきあげるゲオルグ。「そうなのでしょうか? 本当にそう思われますか?」ゲオルグの言葉に嬉しくなったイレーネは笑みを浮かべる。「……それを俺に尋ねるのか? 全く君って人は……俺とルシアンの話は聞いているんだろう? 」「はい、うかがっております。後継者問題が起きているのですよね?」「そうだ、ルシアンは爺さんのお気に入りだからな。何と言っても取り入るのがうまい。結局祖父の心配事はルシアンが未だに身を固めないってことだ。だから俺を引き合いに出して、先に結婚した相手に当主の座を譲ると決めたのさ」肩をすくめて投げやりに話すゲオルグ。「そうなのですね」イレーネは使用人が淹れてくれた紅茶を飲みながら、適度に頷く。「だが、それでも俺にもチャンスはあるってことだろう。だから今、仕事を頑張っているんだ。それに新しい事業計画だって立てている。今日だって爺さんに呼ばれたからチャンスだと思ってここへ来たっていうのに……」そして再びゲオルグはため息をつくと、イレーネを見つめる。「? あの……何か?」キョトンと首を傾げるイレーネ。「今、分かったよ。爺さんが何故俺をここへ呼んだのか……つまり、ルシアンの婚約者になった君を俺に引き合わせるためだったのか。全く……イヤになるぜ」「はぁ……」適当に相槌を打つイレーネ。(いつまでこのお話は続くのかしら……歩いて帰るからそろそろ帰りたいのだけど)「君、俺の話を聞いているのか?」「はい、聞いておりますわ。お仕事を頑張って事業計画も立てていらっしゃるのですよね?」「ああ、そうだ。今日はこれからこの事業計画書を持って爺さんのところを訪ねるつもりなんだ」得意げに背広のポケットを叩くゲオルグ。この話を聞いてイレーネはゲオルグから開放されるチャンスだと思
振り向いたイレーネは声をかけてきた青年をじっくり見た……のには訳があった。(あら? この方、いつの間に現れたのかしら? それに何処かで見たような顔だわ)「聞いているのか? 返事くらいしたらどうなんだ?」青年はイレーネに近付き……近くまで来ると、足を止めた。「へぇ〜……これは驚いた。随分若くて綺麗な女性じゃないか。一体ここへ何をしに来たんだい? 良い身なりをしているわりに、供をつけてもいないようだし……。もしよければ君の名前を教えてもらえないか?」イレーネが若く美しい女性だということに気づいた青年は笑みを浮かべる。「……」一方のイレーネはじっと青年を見つめている。どこかで見たことのある顔のような気がしてならずに、記憶の糸を辿っていたのである。(やっぱり、何処かで見たことのある顔だわ……? いつ、何処で見たのかしら……?)返事もせずに、自分をじっとみつめるイレーネに青年は首を傾げる。「どうしたんだ? お嬢さん」そこでようやくイレーネは口を開いた。しかも、思いきり勘違いさせるような口ぶりで。「あの、私達……どこかでお会いしたことありませんか?」「え……?」青年は戸惑いの表情を浮かべ……次の瞬間、満面の笑みを浮かべる。「これは驚いたな! まさか君のように美しい女性から口説かれるとは!」「え? 口説く?」イレーネは自分の発した言葉が、まさか青年にとっての口説き文句になるとは思わなかった。しかし、今の言葉で青年が上機嫌になったのは言うまでもない。「生憎、会うのは初めてだよ。君のような美人、一度会ったら忘れるはずはないからね。……そうだ、まずは自己紹介しよう。俺の名前はゲオルグ・マイスター。この城はマイスター伯爵家が所有する城の一つで、いずれは俺が当主の座を引き継ぐ予定になっているのさ。今日は当主に呼ばれていて、これから会いに行くのだが、その前に自分が好きな場所を訪れていたんだよ」青年……ゲオルグはイレーネが何者か知らないので得意げに語る。一方のイレーネは青年の話を聞きながら、目まぐるしく頭を働かせていた。(ゲオルグ……。そうだわ、何処かで見たことがある顔だと思ったら、ルシアン様によく似ていたのだわ。つまり、この方と次期当主の座を競い合っているというわけね。私がルシアン様と関係があることが知られたらどうなるのかしら?)しかし、イレー